episode1
ソマリア海賊の話ってホント⁉
―本当です。漁業を通して海賊にならなくて済む方法を教えました。

ソマリアで海賊を撲滅した、という話が広まっていますが、正しくは現地で海賊が生まれる原因をなくし、海賊をしていた彼らが今後暮らしていくための手助けをしました。



当社では2010年ごろより、紅海、アデン湾に面したアフリカのジブチ共和国とのビジネスに力を注いでいました。ジブチは、ソマリアに隣接する国で、マグロをはじめ水揚げした多くの種類の魚の加工、冷凍、流通に、これまで得た技術を提供してきました。

ソマリアではこれまで、豊富な海洋資源があるにも関わらず、せっかく魚を獲っても加工技術がないため、一日1トンくらいしか国内で販売することができませんでした。貧困から海賊行為に手を染めていた人もいましたが、彼らはもともと漁民であったため、正しく魚を加工することで輸出が可能になり、今では多くが生活を立て直し漁師に戻っています。

ジブチ共和国からもほど近いソマリア沖は、キハダマグロ、バチマグロその他の世界的な好漁場です。ところが、ジブチを含むソマリア沿岸は、2004年に起きたスマトラ沖地震による津波で、壊滅的な打撃を受けてしまいました。もともと1990年代に始まる内戦、それをきっかけにソマリアの海賊の問題が生じ、現地は平和な暮らしとは縁遠い状況が続いていたところに起こったこの津波被害は、致命的なものでした。

それも影響したのか、2005年頃からは海賊被害がこの海域を通過する世界各国の船舶にも拡大し、ソマリア周辺海域が航行にも危険な状態となりました。そこで、日本の自衛隊や、アメリカ、フランス、ドイツ、スペインなど各国の軍隊が艦艇や哨戒機を派遣するなどして、海賊が出ないように努力してきました。

日本の自衛隊がジブチに活動拠点となる基地をつくったのは、2011年のことです。ちょうどその前後に、社長のもとへジブチから要請がありました。また、過去に在籍していた、自衛隊の時の後輩である現役自衛官たちがジブチに行っていて、「どうして海賊が出るのだろう」と不思議に思った社長は、状況を聞くため現地に行きました。
大統領や水産関係者、そこで働く人、国民の声も聞いてみた結果、現実にソマリアの海賊の問題が生じていることを把握することができました。

「自衛隊の活動も素晴らしい。しかし、海賊を退治するのに、ミサイルで一掃することはできない。完全に武装集団化した凶悪な者を除いて、海賊の多くは小さい船で、持っているのもロシア製の粗末な機関銃だけ。蹴散らしても、ほかに暮らす手段がなければまた海賊に戻ってしまうのでは。」と社長は考えました。

海賊にならずに済む方法を模索しましたが、結局、最後は人間と人間の話し合い。彼らとの会話によって答えを見つけました。「君たちは何のために生きるんだ。人に喜んでもらえることをすれば、自分も生きがいをもって生きていける。だから人の悲しむことじゃなくて、喜ぶことをやるんだ。それが仕事だ」と社長は彼らに思いを伝えました。

海賊を捕まえて、日本に連れて来たら、「帰りたくない」というのが彼らの本音であり、日本で安楽で豊かな暮らしができるなら、危険を冒す必要もありません。でも、それでは解決になりません。なので、現地で海賊が生まれる原因をなくし、彼らが今後暮らしていくための形を整えていくことにしました。

実際に協力するにあたって、具体的になにができるかを考えてみると、現地に冷蔵庫はあるけれど、魚の売り場所がなかった。だから彼らは「獲ってもしようがない」と言う。現地で消費される量は限られているし、食べ方もよくわかっていない。しかも、漁に必要な漁船をはじめとする設備も、粗末なものしかないという状況が把握できました。



木村社長自身も現地で、実際に日本の釣り方を試してみました。そうしたら、驚くほどよく釣れる。水産資源は十分にあることを再確認し、みんな一日何千円でも何万円でも、漁業を通して仕事と収入を確保できれば、海賊にならずに済むと確信しました。政府も、彼らが漁業に従事して、国として自立していくことを望んでいる。ならば、お互いに協力しましょう、と我が社も協力して、政府と漁業分野の合意書を交わしました。

現地の漁協を通じて漁民に漁業指導をし、日本から中古漁船を持ち込みました。運搬するための船も、日本の船籍だとソマリアに持っていけないので、方法を調べて、スリランカ船籍にして、スリランカ人を訓練して乗員とし、スリランカから持っていくなど工夫しました。

そして、試行錯誤をしながら、ジブチをはじめ、ソマリア沖で漁業ができる人たちとビジネスをするための準備を進めました。現地の人たちに魚を獲ってもらい、それを当社で買うための仕組みを作っています。今はまだ、採算が取れるような水準ではありませんが、将来的にはきちんと利益が出るように進めています。その間も、アルカイダの問題があったり、ISIS(イスラム国)の問題があったり、国際的に危険な問題もたくさんありましたが、その都度、様々な方からの協力も頂きながら乗り越えてきました。



この活動を通して、2013年には、スリランカのマヒンダ・ラジャパクサ大統領(当時)、ジブチのイスマイル・オーマル・ゲレ大統領がそれぞれ来日された際に、社長とお会いする機会も頂きました。また、ジブチ政府からは、これまでの活動を認めていただき、木村社長に勲章が授与されました。

「目先の利益、儲けが第一ではなく、求められることに応えていくことも“商売”ではないか」という社長の考えのもと、当社では、少しでもジブチやソマリアの人たちの暮らしがよくなるよう、微力ながら、今後とも協力を続けています。
episode2
ヘミングウェイカップで優勝したってホント⁉
幻の金メダル!? ヘミングウェイ・カップ世界大会銀メダル

木村社長の〝マグロ好き〟は、食べることにだけに限りません。マグロを獲ること、つまりマグロ釣りも大好きなのです。美味しいマグロを求めて世界中を飛び回るということは、同時に世界中でマグロ釣りを経験しているということ。30年程前、大西洋のフロリダ沖やバハマ沖で大物のマグロが釣れると聞きくと、すぐに調査を始め、キューバ沖で375kgの大物を釣ったそうです。その様子はテレビで放送されましたが、「やらせじゃないか」という投書がテレビ局にあったそうです。それにはちょっと憤慨し、大の負けず嫌いの性格もあって「自分の腕を証明したい」と思っていたところ、「ヘミングウェイ・カップ」という釣りの大会のことを知り、2003年6月9日、キューバで行われた「第53回ヘミングウェイ・カップ」大会に出場。大物のカジキを3本釣り上げ、銀メダル獲得しました。日本人が入賞したのは初めてのことだったそうです。





この「ヘミングウェイ・カップ」とは、『老人と海』を書いた米国の文豪アーネスト・ヘミングウェイが1950年に始めたカジキマグロの国際トローリング大会で、毎年6月にキューバで開催されている世界でもっとも歴史のある大会です。4日間のトータルでカジキを一番多く釣れたチームが優勝となり、しかも「カジキを船に寄せるまで誰の助けも借りず1対1で闘う」というヘミングウェイの精神が引き継がれています。



今年7月には、キューバ国外では初めての、日本国内でも唯一の「浜名湖キューバ ヘミングウェイカップ」が開催される予定でしたが、新型コロナウィルスの影響により第1回目の開催は来年7月に延期されました。

しかし、この銀メダルの獲得には、後日談があったのです。木村社長はこの大会で4本のカジキを釣り上げたのですが、キャッチ・アンド・リリースの大会ルールを聞かされてなく、釣り上げた1本を一時船に上げてしまい、その1本が無効となってしまったのです。もしこの1本がカウントされていれば、実は金メダルだったのです!
また、大会後に市内で行われた政府関係施設のパーティでマグロの解体ショーを披露。なんとその会場にはフィデル・カストロ議長(当時)も列席されていたようです。この時のご縁で、息子さんのアントニオさんと出会い、親交を深め、彼の結婚式にも招かれました。アントニオさんはキューバ野球連盟の副会長を務めていたので、来日された際には、必ず「すしざんまい」を訪ねてくださるそうです。

episode3
木村社長がギネス記録を持っているってホント⁉
-本当です。すしざんまいとして2017年に『競り落とされた世界一高額なマグロ』の認定を頂きました!

「すしざんまい」では年始に、多くのお客様に縁起物でもある初物の本マグロをお届けするため、毎年1月5日に行われる「生本マグロの初競り」に参加しています。
初競りで落札される「初物」の本マグロの中でも特に品質・脂ののり・形が最上級で、初競りで一番価格が高く落札されたマグロを「一番マグロ」と呼ばれています

「一番マグロ」という、とても縁起のよいものを多くのお客様に食べてもらい、新年を明るい気持ちでスタートして欲しいという思いから、「すしざんまい」は2001年の「本店」オープン以来、この初競りに参加し、これまでに多く「一番マグロ」を落札してきました。そして落札した「一番マグロ」は、落札価格に関係なく通常の価格で提供しています。


(生本マグロ初セリ 年度別落札価格についてはこちら)

2013年1月5日の築地市場の初競りで1億5,540万円で落札した本マグロが、2017年に「セリで落札された最も高額なマグロ」として世界記録に認定され、同年6月1日に「すしざんまい 奥の院」にて認定式を行い、認定証が授与されました。

社長は認定式で当時を振り返り「東日本大震災の後で日本も大変だったので、美味しいマグロを食べてもらい日本を元気にしたいの一心だけでした。これからも日本の外食産業や水産の発展のために、一生懸命頑張っていきますのでよろしくお願いします。」と語りました。



その後の2019年の初競りでは3億3360万円、2020年の初競りでは1億9320億円と、自社が持つ世界記録の1億5,540万円を上回る価格で落札しました。

落札価格は毎年異なりますが、「みなさんにいいマグロを食べていただきたい」という思いは、どの年も変わることはありません。「すしざんまい」ではお客様に喜んでいただけるように初競りだけでなく、いつご来店頂いても「美味しい」と言って頂けるマグロをこれからもご提供しています。
episode4
自衛隊出身ってホント⁉
戦闘機のパイロットを目指し、15歳で航空自衛隊に入隊

木村社長が自衛隊出身であることはあまり知られていないようで、「自衛隊出身って聞いたんだけど、ホントなの?」と聞かれることがよくあります。それは確かに事実で、木村社長は、1968年、中学卒業後15歳で埼玉県熊谷市にある航空自衛隊第4術科学校生徒隊に入隊しています。
そのきっかけとなったのは、木村社長が4歳になったばかりで父親を交通事故で亡くした時。父の葬儀の日、皆が悲しんでいる場にいるのがいたたまれなくなり、家から出たちょうどその時、上空を機体の下の部分が赤い4機編隊の飛行機が低空飛行で飛んでいきました。それを見た木村少年はすぐさま、「あれに乗りたい!」と思ったそうです。後に知ったことですが、その飛行機はF-86セイバーでした。



その思いは、いつしか、「パイロットになってやる」という目標に変わっていきました。中学卒業後の進路を決める頃、当時、戦闘機のパイロットになるには高校卒業後に防衛大学に入る必要があり、成績は良い方だったので県内でも屈指の進学高校への進学も可能でしたが、家が貧しく、高校へ進学できる環境ではありませんでした。動物が好きだったので北海道に行って牧場で働こうかと考えていた時、中学校の先生から「自衛隊はどうだ、お金も稼げるし、ここに行けば、夢だった飛行機にも乗れるぞ」と勧められ、自衛隊への入隊を決めました。
木村社長が入隊したのは、航空自衛隊第4術科学校生徒隊の14期生。今はなくなってしまいましたが、航空自衛隊における生徒制度で当時は、日本全国から100名程度しか入隊できない狭き門でした。



しかし、パイロットになれると聞いて入隊したものの入隊後、しばらくして実はここは通信兵でこのままではパイロットになれないことを知ります。そこで17歳で大検を受けて合格。操縦学生の資格を得、いよいよパイロットになれるという時に、訓練中の事故で目を患い、戦闘機のパイロットへの道が閉ざされ、5年9ヶ月で退官することになります。

自衛隊時代の過酷な訓練やエピソード、退官後から現在に至るまでの苦労や経緯などを知りたい方は、著書『マグロ大王 木村 清 ~ダメだと思った時が夜明け前~(講談社)』で詳しく書かれていますので、どうぞ、この本をお読みください。